口腔がんは予防できるのでしょうか?


 御挨拶のところでも申しましたが、「がん」は生活習慣病の一つです。私は長年口腔がんの予防を手がけてまいりました。ではどのように口腔がんを予防したらよいで しょうか。少しずつお話していきましょう。
 口の中の病気というと、虫歯や親知らずの痛みなどを連想すると思います。「虫歯予防」は社会的にも大きく取り上げられて、学校での歯科検診などは既に常識となっ ていますが、「口腔がんの予防」という概念はあまりなじみがないと思います。
 「がんの予防」はどちらかというと行政主導というよりも、個人のがんに対する恐 怖から、自発的に検査に赴く場合が多いと思います。人間ドックなるものも盛んですが、早期のがんを発見するには大ざっぱで、難しいと思います。
 口腔がんの予防となるとこれはもう全くお寒いばかりです。幸い日本では口腔がん はすべてのがんのうちの約1%しかないので、多くの方は心配ないと思いますが、その1%に対する予防対策というのは全く行われていません。喫煙、飲酒などが大きな原因と考えられていますが、個人の嗜好ということで、各方面からの反対にあい、日 本の厚生労働省(当時は厚生省)の「健康日本21」運動もトーンダウンしてしまいました。最近日本医師会が中心になってタバコの害について啓蒙する運動を始めたのは朗報です。米国は健康指向の強い国で、「健康は自分の責任」という考え方が定着しています。喫煙者の採用や昇進を見合わせたり、保険への加入も制限されたりしてい ます。喫煙本数では1960年がピークで、30年後の1990年代になってやっとがんが減り はじめてきました。
 日本でもそろそろ口腔がんの予防に目を向けてもいいのではないでしょうか?全身 の健康を考えていけば、口腔がんの予防につながります。歯科の分野からもアプロー チしてほしいものです。(月刊「がん」より出版社の許可を得て転載、一部改変)

口腔がんとは

口腔がんの原因

タバコの害

アジアの口腔がん

前がん病変の見つけ方

歯医者さんに口の中やまわりを診てもらおう、歯医者さんも口腔がんの予防を考えよう

口腔がんと遺伝子

21世紀の口腔がん予防


口腔がんとは

 「口腔」は空洞器官で、表面を口腔粘膜に覆われています。舌、歯ぐき、口蓋(う わあご)、口底(舌の下の部分で、舌が収まっている所)、頬粘膜、口腔前庭(歯ぐ きと唇、頬粘膜の間)などの軟らかい組織と、歯という硬い組織からできています。 歯以外の軟らかい組織は自分自身の力でなおすことができますが、時にそのなおり方 がうまくいかないで、細胞の増殖がコントロールできなくなってしまう(自律的増 殖)とがんになります。舌がん、歯肉がん、口底がんなどは日本人に多く見られる口 腔がんです。がんになってしまうと、大きな手術や放射線治療などの大変な治療が待 ち受けています。そうなる前にどうしたら予防できるかを考えることはとても大切な ことです。
 「前がん病変」と呼ばれる状態があります。これは、がんができる前の状態、がん になりかかっている状態です。口腔での前がん病変の代表は「白板症」です。これは 「前がん病変」と全く同じ意味ではありませんが、その一部は明らかに前がん病変で す。口の中の粘膜がベターッと白くなる病気で、剥がそうと思っても剥がれません。 原因についてはまだはっきりしませんが、外からの機械的、あるいは化学的刺激に対 する反応と考えられています。白板症の約10%からがんができます。このような前が ん病変ががんになるのを防ぐのが口腔がんの一次予防です。

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口腔がんの原因


 一体、なぜ口の中にがんや前がん病変ができるのでしょうか?何が原因なのでしょ うか?  まず第一に化学的刺激、この代表的なものは飲酒と喫煙です。タバコの害について は後ほどお話します。第二に機械的刺激、虫歯や、歯石、歯に入れてある金属がひっ かかったりして、常に舌や歯ぐきを傷つけ続けていると、それが原因でがんになりま す。口腔内を不潔にしていると、このような状態を招きます。第三に慢性炎症、歯が 原因で慢性の炎症が長く存在すると、がん化することがあります。炎症とがんの発生 とは一定の関係があって、活性酸素などの影響でがん化の下地を作っていると考えら れます。このような原因がそれぞれ単独ではなく、複合して口腔がんが発生すると考 えられます。
 以上からわかると思いますが、口腔がんの原因は、遺伝的要因というよりも、環境 的要因が強いと考えられます。家族性に出た場合でも、同じ生活環境で、同じ食生 活、同じ口腔衛生状態であれば、遺伝というよりも環境の影響を考えるべきです。

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タバコの害

 紙巻タバコは全世界で年間約5兆本も生産されていて、「史上最大の発がん商品」 とも呼ばれています。タバコの煙には約400種類の化学物質が存在しており、そのう ちの約40種類は発がん物質です。
 喫煙者によって吸入される煙は「主流煙」といいます。それに対して「副流煙」は タバコの火先から出てくる煙です。喫煙者もそのまわりにいる人も吸わされることに なります。フィルターを通っていないので煙の中の化学物質は主流煙よりも濃く、も のによっては100倍も濃いことがあります。家庭で喫煙者がいる場合には、そのまわ りにいる人はこの副流煙に注意しなければなりません。車のような密室で煙を吸わさ れている子供達をよく見ますが、とても悲しい気持ちになります。
 タバコによって起こる口の中の変化をよく知ることは大切で、タバコをやめるよい きっかけになるかもしれません。定期的な口腔内の検査をすることによって口腔が ん、あるいは前がん病変を早くみつけることができ、命を守ることができます。ここ ではタバコを吸うことによってできる口腔病変について見てみましょう。
 喫煙は前がん病変としての白板症の原因の一つとして重要な因子です。喫煙者の2 3%は白板症があるといわれており、非喫煙者の6%ととは対照的です。さらに、喫 煙の量、継続年数とも関連してきます。タバコの本数が多ければ多い程、喫煙期間が 長ければ長い程危険と考えて間違いありません。喫煙指数(1日のタバコの本数× 年)が400 を超えると肺がんの危険率が急速に高くなります。
 喫煙者の白板症もタバコが直に接する頬の粘膜や唇の角のところにできやすいとい われています。また、口底にもできやすく、これはタバコの成分が唾液中に溶けて口 底に溜まるからと考えられます。
 口腔がんの発生率は、非喫煙者に比べ2〜18倍高くなっています。さらにアルコー ルを毎日飲んでいる喫煙者のリスクは一段と高くなります。口腔がんと咽頭がんの患 者さんの約4分の3は喫煙と飲酒をともに行っているという報告があります。また、 栄養状態が悪かったり、真菌(カンジダなど)やウイルス(パピローマウイルスな ど)に感染していたり、口腔衛生状態が良くなかったりするとさらにリスクは上がり ます。
 日本で口腔がんの発生する割合は全がんの約1%といわれています。そのうちの9 5%以上は40歳以上です。以前は男性に圧倒的に多かったのですが、1950年以 降は女性も増えてきました。これは女性の喫煙者が増えてきたのと関係しています。 口腔がんで最も多いのは舌がんで、全口腔がんの約40%を占めています。これは日 本、欧米などの先進国で共通した現象です。次いで、歯肉、口底の順となっていま す。ほとんどの口腔がんは病理組織学的に「扁平上皮癌」といわれるものですが、見 た感じは様々で、なかなか素人にはわかりません。口腔がんは、たいてい口の粘膜が 白くなったり、赤くなったり、あるいは白と赤が混ざったような色をしています。さ らに症状が進むと、もこもこと盛り上がってその中心に潰瘍ができたりして、出血が みられることもあります。初期の段階ではあまり痛みがなく、病変に気が付かない場 合もありますが、歯がぐらぐらしたり、入れ歯があわなくなったり、徐々に飲み込み づらくなったり、味がわからなくなったりといった症状が出現します。顎の下や首の リンパ腺が腫れたら、これは転移のサインです。私達臨床医は口腔がんの患者さんを 診たら必ずリンパ腺の診察をします。リンパ腺に転移しているかしていないかで患者 さんの予後は大きく変わります。

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アジアの口腔がん

 南アジアや東南アジアでは、口腔がんはすべてのがんの30%にも及んでいます。 30%となると、もうこれは社会問題です。この地域では噛みタバコ (betel quid chewing) を噛むという習慣があります。これはタバコの葉と消石灰、アルカロイド を含んだ木の実、ビンロージュの葉を混ぜて噛んでいます。一部の人はこれを口の中 に入れたまま寝てしまうこともあるそうです。これは2000年も前からある習慣で、母 親は子供に噛み方を教え、妊婦はつわりを防止するために噛み、労働者は暑さの中で 仕事にやる気を出すために噛んでいます。そのような習慣を続けている人の40〜60% の口の中に噛みタバコ が原因と思われる様々な病変が認められました。
 噛みタバコ をやっている人達の場合には明らかにこれが原因と思われます。私達 の研究グループは、口の中ががんになりかかっている状態(前癌病変といいます)の 人を見つけて、噛みタバコ の害について教育をすることでそれを止めさせて、もと の状態にもどすことができる(口腔がんの一次予防)ことを証明しました。このよう に、原因が特定できるものは比較的予防がしやすいのです。
 さらに続けているとその一部ががん化して、早期がんの状態になります。ここまで 来てしまうと、もう一次予防の対象ではなくなり、早期発見、早期治療という二次予 防の段階に入っていきます。彼等は口の中にがんが出来ても、がんという病態がわか らず、痛くなるまでは医者にもかからず、早期発見できずに命を落としてしまいます。

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前がん病変の見つけ方

 口腔がんの患者さんの話をお聞きすると、以前に白い病変があったという方がたく さんいらっしゃいます。これを白板症といいます。先ほども述べましたが、白板症と いわれるものは口の中の粘膜がベターッと白くなる病気です。原因についてはまだは きりしませんが、外からの機械的、あるいは化学的刺激に対する反応と思われます。 ただ、同じ白板症でも全部ががんになるわけではありません。薄く均一に白く見える のはそれほど危険なものではありません。厚みが増してきたり、赤白が混じっていた りしている場合には危険信号と考えた方がいいと思います。
 白板症がいつ悪性化(がん化)するかを予測するのはとても大変です。そのような ことをテーマに研究をしているグループもあるくらいです。また、一見白板症に見え ても実はもう一部でがん化している所がある場合もあります。実際に臨床的に白板症 と思って組織をとって顕微鏡で見てみると、「扁平上皮癌」だったという報告があり ます。
 タバコの常習者に白板症が見つかった場合には、もちろん切除することも大切です が、それよりもまず、喫煙を止めるようにお話をするようにしています。このまま喫 煙を続けることによってがん化する可能性が高く、がん化の直接的な原因である喫煙 という環境因子を取り除くことによってがん化を予防できるということをお話して、 何とか喫煙量を減らしていくように努めています。
 「がんの最もよい治療法は『予防』である。」と言った有名な学者がいます。ちょ っとした注意で予防できるのであれば、こんないいことはありません。口腔がんは、 その手術をするのにも、切除・再建を含めて長い時間がかかり、切除することによっ て口腔の機能が損なわれるだけでなく、その治療の痕が外から見えることもあり、患 者さんの精神的ダメージは計り知れません。それよりも同じ時間をかけてたくさんの 方のがん予防ができればと思います。

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歯医者さんに口の中やまわりを診てもらおう、歯医者さんも口腔がんの予防を考えよう

 ふだん最も口の中を見る機会のあるのは歯医者さんです。いつも通っている歯医者 さんに口の中をよく見てもらうことが大切です。歯医者さんもがんや、前がん病変を 見逃さない努力が必要です。
 WHO では、定期的に口に中を検査することを勧めています。検査方法は、1)口の 外側の検査、2)口のまわりや口の中の軟らかい組織の検査、3)歯や歯のまわりの 検査、の3つに分かれています。
 この検査には5分もかかりません。歯医者さんに行ったら、歯だけでなく、口の中 全体を診察してもらいましょう。簡単な器具さえあれば、もしかしたら自分でもでき るかもしれません。あまり神経質になる必要はありませんが、先に述べた口腔がんの 原因にあてはまるようなことが思い当たる時には、相談した方がよいでしょう。

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口腔がんと遺伝子

 がんは「遺伝子病」といわれています。最近の分子生物学の進歩、ヒトゲノムの解 読によって個々の患者さんの遺伝子の変化にあわせた「テーラーメイド」の治療がで きる時代もそう遠くはないと思います。口腔がんにもいくつかの特徴的な遺伝子異常 があります。
  その一つに「フィールド・キャンサライゼーション (field cancerization)」という 概念があります。ちょっとむずかしいかもしれませんので、図で説明しましょう。図 の (a) は遺伝子異常のない正常な口腔です。(b) のように、はじめは外からの刺激 によって舌やその周囲の細胞に遺伝子異常が起こりますが、見た感じは正常です。さ らに年月がたってくると、遺伝子異常が蓄積されて (c) 、その一部が前がん病変 (がんになる一歩手前の状態)となります。さらにそのまま放置しておくと、がん (d) になりますが、そのまわりも遺伝子の異常が「蓄積」されてきます。そうする と、このがんを手術でとってしまっても (e)、残った「正常」の部分からまたがんが できてしまいます (f)。これを「二次がん」と呼びます。舌だけでなく、口腔組織に 比較的均等に環境因子が作用するため、どこにでも二次がんが発生してもおかしくあ りません。かといって、口腔粘膜を全部剥がしてくるわけにもいきません。これが口 腔がんを専門に手術している医師を悩ませている問題です。遺伝子異常の蓄積を防ぐ ための生活習慣の改善(口腔がんの一次予防)がとても大切だということがおわかり いただけたと思います。

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21世紀の口腔がん予防

 日本の患者さんの大半は医学知識、情報がないために「おまかせ医療」になりがち です。医師側にもいろいろと不備な点はあると思いますが、自分自身を守るのは自分 自身です。自己健康管理を十分行い、予防に対する心構えを持ちましょう。もっと口 の中のことを知るようにしましょう。
 国レベルでの口腔がん予防を考えると、以前から言われている「集学的がん予防」 ということを考えなくてはなりません。医者や歯医者だけががんばっても仕方ありま せん。疫学、医療統計学、栄養学、環境科学、分子生物学、病理学、免疫学、有機科 学などの専門知識と行政側の政策面でのリーダーシップが必要と思われます。口腔が んの一次予防を行うことによって口腔全体の健康管理につながります。8020運動 で歯の健康を保ち、一生健康な口腔で人生を楽しむことが、よりよい QOL(生活の 質)につながると思います。

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