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ブログ「堀田清の元気が出るお話」

すずしろの花



北海道医療大学 薬用植物園・北方系生態観察園

堀田 清の自己紹介

生い立ち

1958年(昭和33年)、北海道日高地方の襟裳岬にほど近く、フレッシュな魚が豊富に獲れる某漁師町に生まれる。私の小学生、中学生の頃には現在のようにモノが豊かなではない上に、流通設備、ルートが確立しておらず、バナナ、トンカツなどは、ご馳走中のご馳走でした。ただ、今は高級海産物になってしまったウニは、当時、コンブ漁の漁師たちにとってはコンブを食い荒らすものだったので、新鮮なウニをオヤツ代わりにお腹いっぱい獲って食べていた。とにかく、旬の食材をいっぱい食べて育った自然児だった。

生まれてから高校卒業まで18年間をそこで暮らす。

子供のころの夢

一番なりたかったのは国立公園の山小屋の管理人みたいな仕事。いつも自然に囲まれて、風の音や四季おりおりの風景、香りを感じながら、そんな大自然を保護する仕事につきたかった。中学、高校のころは、砂漠の緑化、海産物の養殖、大好きなリンゴの品種改良などをやりたかった。

その後(その1)

何故か、子供のころ、中学、高校のころには考えてもいなかった薬科大学(北海道医療大学 薬学部)に進学。

入学当時、薬用植物学、漢方、生薬学を志すが4年後に何故か、全く対極にある医薬品合成のための基礎学問(有機化学)に興味を示し、極めようとする。

大学卒業後、北海道大学大学院薬学研究科へ進学、5年間の有機化学の修行を終え、薬学博士となる。この時点では益々子供のころの夢から離れていっていることに気がついてはいなかった。さらに10年半、助手として研究室に残り、有機化学を極めようとした。この間、米国のニューイングランド州ボストンにあるハーバード大学化学科、コロラド州フォートコリンズにあるコロラド州立大学科学科に2度留学し、アメリカの文化に浸る。益々西洋の考え方、文化に傾倒していく。

気がつくと36歳・・・・・

毎日朝7時半、夜は真夜中の12時過ぎの帰宅。家庭を全く顧みない日本人にはよくあるタイプのお父さんだった。が、自分では「私は化学の進歩に人類の進歩に大きく貢献しているすばらしい人生を過ごしている、どうせ、カミさんなんかには分からないサ」などと、今考えると、とても恥ずかしく、恐ろしくなるようなことをフツウに思って毎日を生きていた。が、毎日歯茎から血を流し、お尻から血を流し(痔)、年に2度は高熱を発し、最先端の西洋薬で体をごまかし、「私は元気なはずだ。血が出ているのは何かの間違いだ」と心をごまかしながら、日々をとても充実していると錯覚しながら過ごしていた。

さすがに自分の体の異常に気がつき「このままでは死ぬ」と自覚した(堀田清36歳)。

その後(その2)

37歳、本州への転出話もあったが、多くのヒトのおかげで転職に成功(現職)。ここ10年間は薬用植物学を究めるための修行を行ってきた。修行は今後も続くことになるが、現時点で 10年前とは比べようもないほど全てが変わった。家族との関係、自分自身の心と体の健康、自分の見えるモノ、考えかた、全てが・・・・。

はたと考えると、子供のころの夢だったこととかなり近いことをやっていることに気づく。大学の先生、そして、野山をかけめぐり、四季おりおりの植物たちの元気を撮っている自分が・・・・。

随想

一生懸命生きていれば、色々なヒトと出会い、喜び、悲しみ、怒り、憤り・・・色々なことを感じるのは当たり前のことなのかもしれないが、自分のやりたいと思うことを諦めなければ、神さまは必ずやステキなプレゼントをくれるのだと・・・心からそう思う。

今はこれまでに見たモノ、出会ったヒト、全てに感謝している自分がいる。ステキに生きていくには「いらないモノは何一つない」と思える。今後も色々なことがあるだろうが、自分の心にウソをつかず、生きていきたいと・・・静かに思う。

2006年 2月

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