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タイトル日常生活動作と介護とは
記事No13
投稿日: 2011/04/28(Thu) 17:16
投稿者
日常生活動作と介護とは           あおぞら介助の会 代
表 佐藤正尋
身体が自由でも、身の回りのことを全部自分で
している人はいるだろうか。
障害があってもなくても几帳面
、大雑把な人もいる。ところが,身体が不自由だとそうはいかなくなる
。例えば,喉が渇いてもすぐに水は飲めない。介護者がいなければ来る
まで,待つしかない。介護者がいても,いま何をしているかを確認して
から頼まないと人によっては,次から次へと頼まれると気を悪くする人
もいるのでタイミングなども考えなければならないこともある。そんな
ことを考えながら「水を飲ませてほしい」と頼んで水が飲めるまで時間
がかかる場合もあり、そんな時は「飲みたい」という気持ちもだんだん
薄れてきて水の味も美味しく感じられないこともある。食べるという行
為も、排せつと同様に欠かすことはできない。
何で、「介護
」にお金がかかるの?
自分の意志と判断で身体を自由に動か
すことができれば,食事,排せつ,着替え、洗面,入浴,移動(外出)
等の生活動作に普段、対価としての経費は発生することもない。例えば
、「水」を飲むと水道料という経費が発生するが、水を飲むまでの前後
の動作には経費は発生しない。
仕事上のノルマや大事な約束
以外は、全て自分の時間である。スケジュールが決まっていても予定を
変更したり、体調や精神状態の変化によって物事の時間を早めたり遅く
したり、省いたりする事もできる。その時の状況に合わせて、臨機応変
に行動できる自由がある。食べたい時に食べられる、トイレも行きたい
時に行ける。でも、一人で水も飲めない、食事もできない、トイレも行
けないとなると、それぞれの動作を速くしたり遅くしたり、省いたりす
ることによって生死に関わることにもなりかねない。生きている以上欠
かすことのできない日常動作を他人に責任を持っておこなってもらうこ
と、それを「介護」と呼ぶようになったと思う。「介護」の形はヘルパ
ーや介護福祉士などの有償と、ボランティア、友人、身内などの無償が
ある。どちらも一長一短はあるが、基本的な知識と技術は必要だが、お
互いの「気質や感性」も大きな要素といえると思う。「介護」を仕事と
して位置づけるには「経費」が必要になるわけだが、介護の必要な人が
生活費の中からの負担を強いられ、それが、経済的、精神的負担なるこ
とは、同じ人間として「公平」ではない。介護が必要な人にとって介護
保障は生きる権利だと思う。
介護者の気質や感性で決まる介
護の資質
 介護に要する時間は人によって違う。短時間の介
護で間に合う人もいれば、長時間の介護が必要な人もいる。馴れてくる
に従ってお互いの性格や個性が見えてくる。介護の質の向上という事が
云われている。介護についての基本的な知識や技術は専門学校などであ
る程度教えているとは思うが、介護者の気質や感性等も大きな要素と言
えるのではないだろうか。例えば、その時の体調や精神状態、忙しさに
よっても丁寧にもなるし、雑にもなる。また、介護者によって必要以上
に気を使ってしまい疲れてしまうような事もある。介護の仕方を説明し
て、早く覚える人もいれば時間のかかる介護者もいる。
感性
が合えば、多少の失敗があっても許しあえることで、それなりの良い関
係が保てると思う。逆に相性が合わなければ、互いに表情や言葉づかい
、態度、また介護の仕方も力の入れ具合も微妙に変わってくる。お互い
によい関係でありたいと「何でも、気のついたことあったら、言ってね
」と言葉を交わすが、気まずくなったらどうしようと遠慮や我慢をして
言うタイミングを逃してしまうこともあるわけである。介護という行為
を一つの労働として認めることについては誰も異論はないが、デパート
やレストランやマーケット店員のような、一時的な接客サービス業とは
違う。介護の必要な人にとって、日常動作の保障は生きていく上で必要
不可欠なことである。必要とする動作の時間が前後したり省いたりする
ようなことがあれば、生死につながる危険もある。だからこそ、生きる
権利として安心して受けられる介護保障で、必要な時にすぐに使えなけ
ればならない。
 障害や病気やけが、加齢などによる身体の
不自由な人の「日常動作の介護」が生きる権利として保障されれば、人
生が変わると思う。
食 事
 食事もお腹が空いた
時に、食べたいものを味わって食べられることが望ましいが,自分で食
べることができないとそうはいかない。食べさせ方も介護者によって微
妙に違う。食べさせるペースも介護者自身のペースになりがち。一口ず
つの量も上品にとても少なく食べさせてくれる人,逆に口からはみ出す
くらいにダイナミックに食べさせてくれる人,一口ごとに次に何を食べ
るかを聞く人,塩分,油もの,甘いものはとり過ぎないようにとちょっ
と気づかってくれる人と本当に様々な介護者がいる。そのつど聞かれた
りお節介じみたことを言われると,面倒くさくなって味も分からなくな
ったり食べた気がしない時もある。私は、好き嫌いはほとんどないので
、ご飯とおかずと汁物を交互に臨機応変に食べさせてもらっている。食
べるのが遅い人にはご飯とおかずを混たり,薬を思うように飲めない人
に薬をご飯やおかずに混ぜて食べさせている光景を、私も施設生活の中
で数多く見てきた。食べることは、生きるために栄養をエネルギーに代
える大切な行為で、同時に,相手との信頼関係を築いていく大切なひと
ときであり,心なごむ時である。私はどんなに障害が重くなっても,ご
飯はご飯の味として,みそ汁はみそ汁の味として味わいたい。<br&g
t;排せつ
排せつも,身体が自由に動けば、したい時に近くに
トイレがあればすぐにできる。段差があっても,狭くても和式でも洋式
でも用は足せる。 不自由だと,外出する場合でも使えるトイレが何処
にあるか、段差があるかないか,広いか狭いか、和式か洋式か、また介
護の度合いによって介護者が複数じゃない とだめとか,介護者も同性
でないとだめとかも考えなければならない。場合によっては水分を調整
するとか,そこに使いやすいトイレがあるかを確認してからでないと安
心して外出できない。