同窓生からのリレーエッセイ 福祉Vol.6

 氏名    遠藤 広達(えんどう こうたつ)
 卒業    看護福祉学部 臨床福祉学科10期 (介護福祉コース1期)
 ゼミ     石川 秀也 ゼミ 
 現職    湯浅報恩会 寿泉堂香久山病院 医療ソーシャルワーカー(MSW)
  私の場合、名を名乗るよりも、実習報告会で「ボディメカニクスを使えばよかった」と発表した先輩に対して「なぜボディメカニクスを活用しなかったのか」と質問をした1年生と言った方が認知度は高いような。

 せっかく投稿の機会をもらったので、東日本大震災関連の経験について少し。被害者根性と思われるかもしれませんが、一つの事例紹介として。

 私は福島県郡山市出身で、卒業後に戻ってきて特養で働いていました。結婚しマスオさんとなり、1歳半の長男もおりましたが、あの時、実は無職でした。3日後に再就職をひかえ、たまたま携帯電話の契約を見直そうと義父母と長男を車に乗せて家を出てまもなく、あの地震が発生。自動車のタイヤって、ボールみたいなものなので、揺れる、というか弾むような感じで運転などできません。目の前で通行者は倒れ、ブロック塀は崩れ、近所のかっ○寿司は半壊。何倍もの時間を費やして帰った自宅は荒れ放題。電気はついた、水道、ガスは止まっている。外は雪。一回は流れたトイレが次に流れたのは2日後でした。3/12
には原発で爆発。放射能汚染の恐怖を感じながらも水の無い生活には耐えられず、給水所で数時間の野ざらし状態。その上、その水を飲んでいたかと思うと、ぞっ、としますね。ガソリンも不足。あそこのスタンドはガソリンがあるらしいなんて話があると長蛇の列。私は自転車通勤をすることにしましたが、遠方でガソリンがない職員は泊り込みをしていました。
 
3/14小規模多機能施設に再就職したと思ったら原発でまた爆発。夫婦で介護職の私達は、利用者に避難命令が出て移転先が見つかるまでは介護をすることを話し合い、断腸の思いでしたが同居の義父母に長男を託し、親戚のいる会津まで避難してもらいました。会津なら新潟や国外にも道は続いている。家族を守るため仕事を捨て、県外に避難した同僚もいました。
 残って仕事をすること、家族を守るため避難すること、その判断はどちらもが正解でどちらもが不正解。お互いにかけた言葉は「がんばろう」でした。地域密着型サービスは基本的に市外の方は利用できませんが、避難者を受け入れるため、その方の市から越境指定を受けることが出来ました。市役所から近かったうちの事業所は市内の他事業所への中継地点として、ガソリンの支給も無い中、救援物資を取りにくるように言われ、大量の物資を持ち帰り、居室を倉庫代わりにし、電話を他事業所にかけ、取りに来てくれた事業所に渡し、来られない所の物はずっと保管、なんてこともありました。

 6年半たちました。まだ、私の家の駐車場の砂利の下にも、隣の家の勝手口の脇にも、除染後の土砂があります。最近になって近所の公園や学校から、除染後の汚染土砂が運ばれていっています。管理者までやった小多機は社長との意見のズレをきっかけに辞めて、MSWとなって現在3年目。そして3児の父でもあります。
勤務先で来訪者に病院案内

 勤務先の寿泉堂香久山病院は、回復期病棟、療養病棟、特殊疾患病棟、介護療養型医療施設、デイケア等で構成されています。
MSWとして入院患者さんの療養中、その後の生活を、より良いものとすることが出来るように相談・調整の日々です。また、急性期の病院ではないので、入院の希望がある方には、入院になってもならなくても全ケースでMSWが介入しています。入院にはならなかった患者さんのご家族であっても、入院判定会の結果、入院不可となったことを電話で伝えた時、ご家族から「今入院していて、誰と相談したらよいかわからなかったけど、あなたと話せて今後どうしていけばよいかわかりました」と言われ、その入院先の病院のMSWにも、そのような話をされていたことをお伝え出来た時などは、とてもやりがいを感じています。

皆さんの人生に触れさせていただきながら、愛と幸せを大切にしながら人生を歩んでいきたいな、と、日々体感しています。
 今回は投稿の機会をいただきありがとうございました。

 

                       みんなの大切が明日もつながるように
 

20171120

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