同窓生からのリレーエッセイ 福祉Vol.5

 氏名    吉野 夕香  (よしの ゆか)
 卒業    看護福祉学部 医療福祉学科 医療福祉専攻 4期
 ゼミ     横井 寿之 ゼミ 
 現職    北海道医療大学病院 医療相談・地域連携室 医療ソーシャルワーカー(MSW)

 医療大入学から、私の人生の半分以上医療大とともに時を重ねています。MSWになるとは思ってもいなかったのが正直なところ、誰かから「医療大卒です」なんて話しかけられるとうれしい気持ちになります。

「今日先生に(検査の)数値が良いって褒められた」

「治療を選んでって言われたけど、お金もかかるみたいだし悩んでるの」

「専門用語ばかりで何を言われているかわからなかった」

など、卒後すぐ勤務した病院で事務をしていた頃のこと、患者が託す言葉に、「現場ではどんなことが起こっているのだろう」そう思ったことがきっかけでした。

学生の頃は、知的障害分野において先駆的な取り組みや現場での活躍経験豊かな横井先生のゼミでした。「福祉はとてもおもしろいんだ」と説かれたものの浅学で肯定するだけの余裕がなく、戸惑ったものです。当時は福祉はともすればかわいそうという意識すら持ち合わせていました。おそらく横井先生は気づいていただろうに、卒業の時には、一人ひとりの良いところを記したカードをゼミ生に渡し、私にも惜しみなくありがたいメッセージを託してくれたのでした。

しかし、社会人になると、“知らない”ということがどんなに残酷か実感するとともに、学生時代に横井先生から受けた教え、実際は福祉センスと言った方が適切かもしれません、それによって、医療現場で行き違う医師と患者との関係に、齟齬を覚えずにはいられなかったのでした。

そもそも高校で日本赤十字のサークルだった程度の福祉理解で入学すると、自分の福祉観を語る同期に接し、大した志もなく福祉を専攻したことを後悔しました。講義にあまり魅力を見い出せないまま、キャンパス以外で過ごすことに興味が向いていきました。当時、ダンス音楽ブームにのってclubダンスシーンが札幌にも押し寄せていました。同期や同世代がけん引するHIPHOPHOUSEといったダンススタイルはとにかく新鮮で、特に技術も音楽も間近で体感できるBATTLEは、明日のことも考えずススキノに足を運ぶには十分すぎるほど心を惹きつけてやまないものでした。

4年目のゼミ生活で、横井先生に出会った奇跡と、メンバーに恵まれ、ガツンとしわ寄せが来たくらい好奇心に任せて、入学後初めて福祉にのめりこみました。
この1年が無かったら人生は全く違ったものになっていたように思います。

卒後6年、縁あって母校の病院にMSWとして勤務することになると、歯学部の大学病院なので当然ですが、歯科医師がたくさん在籍しており、全国でも稀な歯科医師はじめ医療職と業務をおこなうことになりました。しかも学生の頃バイト三昧で交流した地元の住民の方が主な医療圏です。気候、習慣、食文化、嗜好傾向など手に取るように生活背景が浮かび、患者さんの気持ちがとても伝わるもので、医師、歯科医師にどう伝え地域生活を守りながら治療を選択するか、国が唱道するような地域包括ケアの多職種連携の実際を、まさに地域単位で行政とともに形にしてきたように思います。

そしてその軌跡には、病院の患者へ直に関わる部門として、当院が開設した10年の長きにわたり、地域連携室に立ち上げ当初から関わり、臨床、教育、研究において地域に貢献してきた歯科医師 池田和博先生(歯学部3期)がいました。池田先生との出会いは、夢中になった学生の頃のダンスシーンを想起させるワクワクでした。
 それは朝からすでに始まっていて、通勤路のモエレ沼公園とさとらんどを挟む道路から愛車が現れると、時々タイヤの軋む音に目を覚まされ、習慣であるモエレ山の頂にいる早朝散歩の人の影を数えるのをうっかり逃してしまいます。信号で停車するとこれまた油断なりません。手を振ろうものなら、前に停車していたクラウンはギアチェンジも瞬息さながらバックし迫ってきます、あわてて両腕で×を作り、勘弁!のサインを返すと、ルームミラーには「失敬失敬」と、してやったりな笑みが映っています。しかし病院の駐車場に到着すると、傍にやって来て「あれさぁ、こうしたらいいと思うんだよね」とすでに仕事モードで本題に入りました。
 そんな調子で、
患者の困難事例さえ、ユーモアで切り返すワザを持っていました。患者の生活背景に着眼し歯科と福祉を繋ぐ可能性に期待を寄せ、共に研究や事業を育んできました。全国的にも、これほどソーシャルワーカーを使いこなした歯科医師はほかに見当たらないのではないかと思います。

また、池田先生の患者への関わりや私たちへの指導では、人を責めたり、強く叱ったり、一方的に促すことがまずなく、十分に状況を聴き取ったうえで、必ずチャンスを与えてくれました。逃げ場は相手に気づきを誘うのです。普段は礼節を重んじ、特に人とのかかわりを大切にしていました。言葉遣いが至らないと、正しい表現を先生が使って諭してくださり、ハッとさせられ単純に叱られるより深いところに響きました。そんなメッセージをキャッチできるようにアンテナをしっかり張り感度を研ぎ澄まそうと心がける日々でした。

ところが、そんな日々がずっと続くと思っていた昨夏、これからすごす時間を、年単位から月単位、週単位で組み立てなくてはならないことになりました。

「どーもどーもぉ」池田先生はバツが悪いときや照れくさいときの挨拶をしました。最初の退院後です。その日から、いつもは「うぃっすー」から始まるありふれた1日が、治療と付き合いながらの残り限られたものになっていきました。

池田先生は、小さな世界にいると小さな悩みでいっぱいになってしまうから、大きな世界を見るようにと広い世界に連れだしてくれました。いつも気づきをくれます。

「いやぁー、福祉っておもしろいよね、MSWって絶対歯科にも必要だと思うんだよね」と自身が患者になってなお治療経験を語りつつ論を展開するのでした。入院先の病院から、運行が最後になるトワイライトエクスプレスの画像をメールして「病室から見えるんだよね、いいでしょ。」という遊びも忘れません。「赤は元気がでるよ」「あの店のパスタ、コルゼッティ最高だよね」医局のお気に入りのイスもパソコンも赤、全国津々浦々グルメ情報は欠かさず、家族旅行とスキー合宿だけは譲らず、オシャレを嗜む紳士で、そしてなにより変遷する医療を常に意識し患者に寄り添う医療人でした。

 診断後は不在の日も増え、声を聞く代わりに文字を追うことが多くなったものの、こんなふうにメールで交わす会話や学会発表の指導は心強く、いつものようにそばにいるようでした。それに、文字は残るんですよね。

1周年だね」などと交わした9月中旬、治療で浮腫んだ足をさするお姿から1週間後、何度目かの入院で帰らぬ人になりました。11ヵ月の癌との付き合いでした。

訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、私のソーシャルワーカーの価値を形成するにあたり、多大な影響を与えていただいた存在に深く感謝しています。

そして今、とても暖かさに包まれた気持ちでいます。一患者さんとして治療と向き合ってくれてありがとうという気持ちと、15年池田先生の影響を受けられたことはラッキーでしかなく、先生の人生に参加できたことは誇りです。この代えがたい時間をこれから患者さんや若い世代に引き継いでいきたい、そういう気持ちでいます。

「福祉っておもしろい」学生時代肯定しきれなかったその横井先生の”インタレスト”に、少しでも近づけているかなと、池田先生はじめ多くの本学同窓生に育ててといただいている環境から感じられるようになりました。社会の動向、惜しみない探求心、どこかに忘れてきていたもの、10年経ても一日として同じ日はなく、毎日新たな発見があり、たくさんの人々に支えられ紡がれていることを実感する日々です。

 モエレ沼公園から右折する車を今日も目で追っています、今にもほら、あのタイヤの音が…そう思いながら。

「うぃっすー」次にまた会う時は池田先生、いつもの挨拶、聴かせてくれませんか

そして そのときは私、こう言いますね「池田先生、お疲れさまですー」

         開院時より人気の「一日歯医者さん」左が池田和博先生、後列右から4人目が私



 

20151105

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